W.楠木: 2011年6月アーカイブ

 私事で恐縮だが(なんて商用雑誌の記事を書くときの癖で言っちゃったけど、ブログってそもそも私事を書くものなんですよね~♪)、2年前に死んだ私の親父は、戦地から故郷・熊本に帰還したあとしばらく旧軍用地を農地化する開拓農家として農業に従事し、その後、県庁に奉職して一家6人を養った。人一倍責任感と義務感が強い一方で、肥後モッコスを絵に描いたような自己主張の強い男でもあり、農政部門一筋で県下の農家の活性化のために尽力するという立場にありながら国や県の農政のあり方をいつも手厳しく批判していた(←ということはつまり、親父が農政の根幹にはタッチできない地位に甘んじていたということの証でもあるのだが......)。

 その親父は、55歳定年時代のサラリーマン(地方公務員)だったわけだが、サラリーマンとしての晩年に県庁の農政部門から異動させられた農業大学(のようなもの。正式名称は何と言うのだったか失念した)の教師の職になじめず、定年を前に職を辞して、以後、どこに勤めることもなく、もちろん起業することもなく、91歳になる直前に亡くなるまで(それでもけっこう忙しそうに)お袋と二人で自分の建てた家で暮らしていた。

 親父は、徴兵兵士として中国からニューギニアへと転戦し、数パーセントの確率で生還を果たした人間だから、年金加入を単なる期間ではなく「社会への奉仕度」として計算するならば、県庁での勤続期間は25年くらいだったとしても、老後を不足なく生きていけるだけの年金が支給されてしかるべきだろう。実際、(頼りにならない)子供たちの仕送りなぞを期待することもなく、お袋と二人で暮らしていくのに十分な軍人恩給、共済年金を得ていた。親父が亡くなったあと、その遺族年金で生計を立てているお袋の年金は、私が65歳になって受け取る予定の満額の年金よりも多いぐらいだ。

 かくいう私は、この3月に晴れて還暦を迎え、4月から年金を受け取れるようになった。だが、誕生日当日に準備万端整えて年金事務所に乗り込み、係員と手続きのことで喧嘩をしてまでその日のうちに届け出を済ませたというのに、実際に振り込みが始まるのは6月から。しかも、国が管理している基礎年金の支給額は年間で(月間の間違いではありません!)30数万円にすぎない(65歳になって満額を受け取れるようになると3倍近くになる予定だし、20年近くは年金基金にも加入していたので、その分は別途基金から支給されることになってはいるが)。フリーでやっていた7年間ぐらいが未納になっているという事情もあるが、それにしたって、まるまる30年も年金を納めたのに生活保護よりも少ない額の支給しか受けられないというのではどうにも間尺に合わない。

 今回初めて知ったのだが、2度の給付水準の引き下げを経て、現在の年金額(給付率)は、親父たちの世代(昭和2年4月2日以前生まれの世代)を100としたら私たちの世代(昭和21年4月2日以降生まれの世代)はわずか54.81にすぎないのだ(基本年金だけでなく代行年金を含めて)。「そんなの聞いてないよ~」と嘆いても、もう遅い。もう少し早く知っていれば暴動でも起こしてやったものを、将来の年金支給のことも忘れて年金勘定の放蕩三昧をしてしまった役所の長に詫びを入れさせることもなく、期待した「ミスター年金」に抜本的な年金改革をさせることもなく、誰も責任を明確にしないまま今年もまた(物価スライドか何かしらないが)年金支給額が下がった。

 おかげでこっちは、親父が退職した年を5歳以上も超してから退職したというのに、年金暮らしは夢のまた夢。ハローワークに通って、職探しに必死の毎日だ。

 そうそう、ハローワークで思い出したが、30代のころに最後の転職をしたときには、確か40歳以上の失業者は9カ月だか12カ月だかくらいの長期間にわたって失業手当を受給できたというのに、去年私が辞めたときには(これまた知らぬ間に)失業保険は4カ月で打ち切りという制度に変わっていた。
 おまけに、失業手当の額も、以前は直前の給与の6割とかだったはずなのに、日額7,000円強が上限になっていた。つまり私の場合、9カ月にわたって月に60万円ほどはもらえるだろうと思って、その後の生活設計を組んでいたにもかかわらず、20万に満たない金を4カ月しかもらえなかったわけだ。当時は勤めていたときのまま、世田谷のUR住宅に住んでいたので、失業手当はほぼ家賃に消えることとなった(というか、正確に言うと1、2万の持ち出しだった)。

 で、慌てて本腰を入れて職探しを始めたのだが、給与等の条件をどれだけ落としても、職種などに制限を設けないようにしても、とんと職が決まらない。それどころか、下手な鉄砲も数撃ちゃ何とやらということで片っ端から送った履歴書が、卓球のあいちゃんの高速ラリーみたいに片っ端から送り返されてくる。会って話すことさえできればなんとか採用してもらえるのじゃないかと甘い期待を抱いているのだが、その「面接の壁」がなかなか破れないのだ。もっと言えば、履歴書を出すことさえ簡単ではない。土俵に立つこと自体が困難なのである。
 ハローワークのパソコン求人検索で、「年齢不問、資格不問」と明記してある求人票をハードコピーして「求人相談」の窓口に行くと(ハローワーク経由で求職する場合、ハローワークの紹介状が必要だとされているので)、係員の方がその会社の採用担当者に電話を入れる。その電話で、「こういう方が応募を希望されていますが」と先方に求職者(この場合、もちろん私のことです)の情報を伝えるのだが、その中に必ず含まれるのが名前と年齢。すると、それを聞いた相手が何かを訴えているようで、係員がしきりにうなずきながら、「なるほど」を繰り返す。そうして電話を切ると、申し訳なさそうに顔を上げて、「定年が60歳で、定年延長の制度も勤務実績が5年以上ある人ということなので」とか「仕事がきついので、ご本人は大丈夫だと思われているでしょうが体力的に無理なんじゃないかということです。現在もいちばん高齢の方で40歳代ということですし」とかいった理由を告げて、紹介状の発行を断るのだ。

 ハローワークを介さないですむ民主党の職員募集も、独立行政法人の理事・監事募集も、「雇用、雇用、雇用!」の菅政権(民主党)が鳴り物入りでやってくれたので喜び勇んで応募してみたが、あえなく書類審査で落選。やっぱり面接までたどり着くことはできなかった。

 結局、1年間の通産打率(書類審査通過率)は驚異の0.00
 これまで心の片隅にあった自信もプライドも、跡形もなく崩れ去ってしまった【T_T】

 なのに、そんな事情も知らない親族の一人は「働かざる者食うべからず!」なんて感じで、頭越しに私の怠慢をそしる。
 あのねぇ、こっちは怠けているわけじゃないの! 働く気がないわけじゃないの! 働く気は満々なの!! プライドをズタズタにされても履歴書を出し続けているの!!!

 東日本大震災以降、なんだか被災者でもないものが世の中に文句を言ったり自己主張したりするのははばかられるような風潮があるが、「ただの失業者」もやっぱり生きていかなければならないのです! 現在、職業訓練の生活給付金で食いつないでいるけど、ちゃんとお勉強をしているので、どうかそれさえも打ち切るとか、働かざる者食うべからずとかだけは言わないでくださいね。政府と官僚さえしっかりしていれば、今ごろは年金で悠々自適、晴耕雨読の日々を送れていたはずなんですから。
 まったく、年金の支給開始を遅らせ、支給額を引き下げるのであれば、その間の職ぐらいは保証しろよなあ。

 今回のシュプレヒコール
 「同情するなら 金をくれ! 金(年金)をくれないなら 仕事を寄越せ!!」

2012年6月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

カテゴリ

  • エッセイ (1)
  • エネルギー
  • コンピューター
  • マーケット
  • 小説
  • 書籍

このアーカイブについて

このページには、W.楠木2011年6月に書いたブログ記事が含まれています。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

タグクラウド