いま、女性がコンピュータを使うことはごく日常的になった。だがコンピュータがここまでくるには、先人たちのたゆまぬ研究や努力があったことは言うまでもない。その日本人女性代表とも言えるのが山本欣子(やまもと・きんこ)さんだ。
山本さんに初めてお目にかかったのは 1987年(昭和62年)の春先である。じつはその数年前から私はIT専門紙の記者としてAI(人工知能)の連載を始めており、それを一冊の本(『AIビジネスへの布石』)にして出すことになった。その推薦文をお願いするのが目的である。当時、山本さんは財団法人日本情報処理開発協会の常務理事だった。
東京タワーの筋向いの機械振興会館にある同協会の応接室で待っていると、スラックススーツ姿の女性が颯爽と入ってきた。それが山本さんだった。山本さんは1928年2月生まれなので当時59歳だったわけだが、バリバリのキャリアウーマンといった雰囲気だった。
趣旨を説明すると笑顔で快諾してくれた。その笑顔がまた魅力的だったので、カメラを取り出して写真撮影をお願いすると「写真ならありますから、あとで送ります」とやんわりと拒否された。
それからしばらくして「発刊に寄せて」というタイトルの推薦文とともに写真が送られてきた。〈う、これは少し若すぎるのでは? やはりあのとき撮っておくべきだった〉と思ったが、お気に入りなのであろうと、ありがたく使わせていただいた。
推薦文の中で山本さんはAIについて次のように述べている。
――とは言え、現時点でも既にAIの大きな可能性が予見し得る。特にソフトウェア面から、ある種の曲がり角にきている現段階の情報処理技術にとって、AI技術の応用は、革新的かつ効果的な新たな問題解決手法の1つと言えるだろう。
東京女子大数学科を出た山本さんは、逓信省(総務省の前身)電気試験所、日本電信電話公社電気通信研究所などでソフトウェアの研究開発に携わっている。日本独自の論理素子として注目されたパラメトロン計算機の研究開発にも参画するなど、わが国のコンピュータの草創期を担った一人だ。山本さんが推薦文で述べたことは、四半世紀たった現在でも生きている。
山本さんとはその後、日本情報処理開発協会の中にできたICOT-JIPDEC AIセンターの委員会に私がオブザーバーとして参加する羽目になって、何度もお会いした。いつも颯爽として、的確な意見を述べておられた。
あるとき、階段を駆け下りてフロアを曲がったところで、山本さんとぶつかりそうになったことがある。「ああ、びっくりした!」と胸に手を当てた山本さんは、恐縮する当方を気遣うように笑顔を見せた。バリバリのキャリアウーマン的雰囲気とは違った女性らしい一面を垣間見た気がした。コンピュータ一筋の人生で、1997年に亡くなられたが、もっと話を伺っておけばよかったと思う。
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