「責任はオレがもつ」

 人口動態調査(厚生労働省)によると、13月は死亡者が多い。夏場に向かって減っていき、9月を底に再び増えていく。冬場に亡くなる人が多いのは、やはり寒さのせいだろうか。筆者の父は1月、母は2月に死んだので、データどおりということになる。ちなみに3月は自殺者が最も多い月だそうである。

 

 ことし1月、石井成樹さんが腎盂がんで亡くなった。享年72。石井成樹と言われても一般の人は知らないだろうが、電機業界の『電波新聞』記者、事務機業界の『事務機器新聞』編集長、IT業界の『BCN』取締役として健筆を揮った人だ。筆者が初めて編集長として仕えた人でもある。

 

 石井さんは温厚な人だった。初めて新聞記事の原稿なるものを書き、チェックをお願いしたときのことは今でも覚えている。

 

「ふむ...。いいんじゃない」

 

 それが石井さんの反応だった。もしかしたら、読みもせずに屑篭に捨てられるのではないか(そういう経験をしたと誰かが書いていたのを読んだ記憶があった)と恐れていただけに、それは拍子抜けするものだった。

 

 その当座は不遜にも(新米記者の原稿なんだから何か問題はあるだろう。業界新聞の原稿チェックとはこんなものなのか)と少々落胆したが、いま改めて思うと、精読して問題点を指摘するほどヒマではなかったのかもしれないし、屑篭に捨てるには原稿用紙がもったいなかったのかもしれない(当時、その新聞社の給料は遅配していた)。

 

 石井さんは1970年代から80年代にかけて注目を浴びた電卓やワープロ(専用機)に詳しく、業界では名の通った人だった。大手の週刊誌が電卓の特集を組んだとき取材を受け、実名入りでコメントが紹介されたこともある。

 

 70年代、事務機器の性能向上を背景に、工場の自動化(ファクトリー・オートメーション)は実現した、次はオフィスの機械化だという機運が高まっていた。それをうけて1979年にオフィス・オートメーション学会が設立された。そのとき、記事にする際、どう簡略化して表記するかを石井さんと話したことがある。文字数をなるべく減らしたい新聞としては「オフィス・オートメーション」はいかにも長かったからだ。

 

 筆者がラチもない略称を考えていたとき、石井さんが口にしたのが「OA」だった。なるほど、オペレーションズ・リサーチ(経営意思決定のための数学モデル)はORと略すから、オフィス・オートメーションはOAでいいわけか、センスのいい人だなと感心した。

ちなみにOA学会は20074月から日本情報経営学会(JSIM)に名称変更している。

 

 石井さんにはいろいろと教えてもらったし、助けられたこともある。今でも覚えているのは新聞の刷りなおしをしたときのことだ。

 

 筆者のいた新聞社は週刊新聞が主力だったが、月刊の雑誌と新聞も発行していた。筆者はその雑誌編集に携わる傍ら、ブランケット版6頁の月刊紙の編集を任されていたのだが、あるとき新聞の試し刷りで誤植が見つかった。今と違って活版印刷だったので、この段階での誤植は輪転機にセットした鉛版(えんばん)の文字を削りとることで対処していた。これは筆者がいたような小規模の業界新聞のみならず、朝毎読のような大新聞でも同じで、時折り一文字か二文字、記事が空白になっていたものだ。

 

 だがこのときの誤植は見出しの固有名詞だったので、鉛版を削りとれば何とか誤魔化せるものではなかった。ガツンと頭を殴られた気分だった。活字を組みなおし、紙型(原版の複製を作るための紙製の鋳型で、これを元に鉛版を作る)を取り直し、鉛版を作り直さなくてはならない。

 

 さあ、困った。月刊紙の編集長は社長が兼務していたのだが、朝の早い段階だったのでまだ出社していない。石井さんも出社していないので相談相手がいない。かといって、輪転機を止めておくことも出来ない。なぜなら、他にも多くの業界新聞が待機していたからである。

 

 新聞の活版印刷にどれくらいの経費がかかるかは、以前に社長から明細を見せられたことがあるので知っていた。紙型代、鉛版代、用紙代などを概算してみると、当時の筆者の給料を上回る額だったが、ままよ、責任追求されたら給料で返納することにしようとハラを括り、急いで刷りなおし作業に取りかかった。


 再度、試し刷りを目を凝らしてチェックし、問題がないことを確認して輪転機を回してくれるように現場の人に指示する。輪転機がゆっくりと回転を始め、速度を増していく。頭上で巨大なロール紙を巻き取りながら記事が印刷され、新聞が出来上がっていくこの瞬間を見上げているのが好きだった。

 

 もっとも刷り部数は千部ほどなので、輪転機は最高速度に達したかと思うと、すぐに速度を緩める。頭上から、折りたたまれて降りてきた新聞は自動的に裁断され、手許に積み上げられる。ほっとして、その刷り出しを5部ほど手にして輪転機のある地階から社のある5階(だったと思う)に戻ると、石井さんが出社していたので事後報告した。そのとき、彼はこう言ってくれた。

 

「わかった。責任はオレがもつ」


 嬉しかった。給料なしを免れたということもあるが、いざというとき頼りになる上司がいてくれたことが嬉しかった。


 石井さんは左党だったらしいが、筆者が入社した頃は前立腺を患っていてアルコールを控えており、一緒に呑むことはなかった。

 

 このところ、友人、知人が亡くなると、もっと会って話をしたり呑んだりしておくべきだったと、後悔することしきりである。

 「原稿を書くことは請求書を書くこと」

 いま、IT関連の出版物がどういう状況になっているのか皆目わからないが、かつてIT産業のオピニオンリーダー的存在の雑誌があった。コンピュータ・エージ社が発行していた月刊誌『コンピュートピア』である。

  コンピュータ・エージ社はフジサンケイグループの子会社として1967年に設立(のちに同グループから独立)。初代社長の稲葉秀三氏は産経新聞社長で、日本経営情報開発協会の設立にも参画した。そうした経緯もあって、同年に創刊したコンピュートピアは単なる技術雑誌ではなく、国の情報産業政策等に関する記事も豊富で、オピニオンリーダーたちが産官学から集結している感じがあった。

  その『コンピュートピア』の名編集長だった久保悌二郎さんが今秋(20131010日)、すい臓がんで亡くなった。享年71

  久保さんには大変お世話になった。というより、原稿遅れで迷惑のかけどおしだった。

 「こっちの内部締め切りを読むんだもんなあ。まいっちゃうよ」

 

 言い訳の電話を入れると、久保さんはそう言ったものだ。寄稿者に依頼するときの締め切り日は、遅れを想定して余裕を持たせてある。月刊誌の場合、一週間程度はあるだろうか。むろん、こちらとしては編集部内のデッドラインを読んでいるつもりは毛頭ないので恐縮するしかない。

 

 こんなお叱りを受けたこともある。

 

「○○(筆者の名)さんね。原稿を書くということは、請求書を書くということなんですよ。請求書がないとカネを払うにも払えんでしょう」

 

 久保さんは、大きな目をした彫の深いマスクに口ひげをたくわえたいい男で、気の強い反面、照れ屋でもある。注文をつけるときの表情は、そのつっぱりとシャイが適度にミックスされてどこかお茶目な感じがあり、憎めなかった。

 

 『コンピュートピア』は200511月、通巻470号をもって廃刊した。パソコンがコモデティ化し、インターネットによる新たなコンピュータ利用が急速に進展し、携帯電話がパソコン化するなかで、コンピュートピアは情報媒体としてうまく適応できなかったのかもしれない。

 

 久保さんはインターネットの商用化が始まる以前の1990年、コンピュータ・エージ社を退社して千葉県流山市にある江戸川大学に転進した。当時、江戸川大学は開学したばかりだったが、江戸川学園のホームページによると教育機関としての歴史は古く、1931年(昭和6年)、東京・小岩町に開校した城東高等家政女学校に始まる。

 

 江戸川大学は社会学部応用社会学科、マス・コミュニケーション学科の1学部2学科でスタートし、現在は社会学部(人間心理学科、現代社会学科、経営社会学科)、メディアコミュニケーション学部(マス・コミュニケーション学科、情報文化学科)の2学部5学科に拡大している。

 

 江戸川大学で久保さんはマス・コミュニケーション学科を担当。キャンパスで教鞭をとるだけでなく、卒業生の就職支援でも大車輪で活躍された様子だ。伝統のある大学の卒業生でもスムーズに就職するのは難しい現代。新設大学の教官としての苦労は想像に余りある。大学の教育関連のコンピュータ運用を学生自治にするなど斬新な手法も採り入れ、学生からの信頼も厚かったようだ。

 

 助教授から教授になった久保さんは、その後、江戸川大学総合福祉専門学校の校長に就任する。大学人になった久保さんとは疎遠になっていたが、福祉学校に移ってから、お知恵拝借で連絡したことがある。15年以上のブランクがあったと思うが、それをまったく感じさせず、久保さんは懇切に対応してくれた。

 

 「情報」が専門の久保さんが俳人の本を出していたのを知ったのは告別式のときである。

 

『遊女・豊田屋歌川 北前船で栄えた三国湊の女流俳人』というタイトルの本だ(写真)。

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秋田市にある版元の無明舎出版から取り寄せて読んだ。

 

 タイトルにある三国湊は北陸福井県の港町である。北陸の女流俳人といえば加賀千代女が有名だ。不勉強で知らなかったが、久保さんによると豊田屋歌川はその千代女とともに「江戸時代中後期の北越(加賀・越前)の俳壇を彩った女流俳人」だそうで、代表的な句のひとつにこんなのがある。

 

 奥そこのしれぬ寒さや海の音

 

 筆者は冬の北陸を何度か訪れたことがあるが、これを読むと、重く垂れ込めた雲の下を歩きながら日本海から吹いてくる寒風にさらされたことや、岩場に咲く波の花の光景をまざまざと思い出す。名句である。

 

 遊女としての心情を偲ばせる句には、

 

 寄る波の一夜どまりや薄氷

 

 肖像画にみる歌川は美しい。遊女としての歌川も魅力的な女性だったに違いない。それにしても、なぜ久保さんが歌川に興味をもったのか。そういえば久保さんはたしか福井の出身だったように記憶しているが......。

 

 執筆の動機を久保さんはこんなふうに書いている。

 

 以前から親戚の間では、湊屋(筆者注:久保さんの曽祖父が経営していた廻船問屋)と豊田屋は親戚関係にあり、歌川との縁は浅からぬものがあったという、不思議な話は聞いていた。しかし、ことが遊女屋との関わりだから、あまりおおっぴらには語られてこなかったのも、むべなるかなである。しかし、その真偽を確かめたくなるのが人情というものだ――。

 

 だが歌川について書かれた記録や小説はいくつかあるものの、確たる資料は少なく、亡くなったのが三国湊なのは確かなようだが、生年や生国は不明という。生涯に詠んだ俳句の数も、研究者によってまちまちだ。

 

 『遊女・豊田屋歌川――』は、そうした多くの謎に包まれた北陸の女流俳人の生涯を辿りながら、彼女が生きた時代の北陸俳壇事情、夢とロマンに満ちた北前船の話、その海上運輸をめぐる三国湊と隣町との確執(それが北陸俳壇にも影を落とした)など、興味深いドラマが展開する。

 

 久保さんがこの本を上梓したのは20119月。その前後に病を得て2年間の闘病生活を強いられ、帰らぬ人となった。ご冥福をお祈りしたい。

 

  無明舎出版:秋田市広面字川崎112-1 電話 018-832-5680

 「ロボットのキラーコンテンツは高齢社会対応」

 

 ロボットの出てくるテレビや映画を一度も観たことがない、という日本人はほとんどいないのではなかろうか。日本は「鉄腕アトム」や「鉄人28号」を生んだ国である。産業用ロボットでは世界をリードしているし、民生用でもホンダの「ASIMO」を筆頭に画期的なロボットを数多く生み出している、世界に冠たるロボット大国であることはご承知のとおりだ。ロボットに親近感を抱く点で日本人は世界屈指だろう。

 

 この8月にはロボット宇宙飛行士が宇宙に旅立つというので話題になっている。東京大学先端科学技術研究センター(東大先端研)やトヨタ自動車などが、宇宙航空研究開発機構(JAXA)の協力のもとに開発した「KIROBO(キロボ)」というのがそれ。84日打ち上げ予定のH-ⅡBロケット4号機に搭載される宇宙ステーション補給機「こうのとり」4号機に"乗り込み"、2014年末まで国際宇宙ステーション(ISS)に滞在する予定という。

 

 KIROBOは身長34センチ、体重1kgと小型だが、話しかけられた言葉を認識し、意味や使い方を学習するようプログラムされていて、人との会話が可能。蓄積された記憶をもとに会話の内容を類推して何通りもの返事をすることも、画像認識技術を駆使して人の顔を記憶、判別することもできる。

 

 このタイプ(コミュニケーションロボット)の代表格として10年ほど前にNECが開発した「PaPeRo(パペロ)」がある。当時でもかなりのレベルに達していたから、KIROBOはさらに高いコミュニケーション能力を発揮してくれるだろう。KIROBOの製作を担当した東大先端研の高橋智隆特任准教授は「15年以内に1人が1台のロボットと暮らす生活を実現したい」と語っている。

 

 ロボットの未来について日本経済新聞で、作家の瀬名秀明さんにインタビューしたことがある。瀬名さんは東北大学大学院在学中の1995年、ミトコンドリア遺伝子の反乱を描いた小説『パラサイト・イヴ』(第2回日本ホラー小説大賞)で作家デビューし、2011年から2013年まで第16代日本SF作家クラブ会長を務めている。インタビュー当時(2005年)は経済産業省の次世代ロボットビジョン懇談会のメンバーでもあった。

 

 東京・大手町にある日本経済新聞社の上層階の一室にやってきた瀬名さんはセーターを着たリラックスした格好で、少壮の研究者といった雰囲気を漂わせていた(少壮は30歳くらいまでをさすらしいので、当時三十代後半だった瀬名さん(19681月生まれ)に使うのは不適切かもしれないが、ともかくそんな印象だった)。

 

 なるほど、この人がパラサイト・イヴの作者か...と思いながら挨拶すると「VR革命、読みました」と言われ、驚いた。拙著『VR革命』(オーム社刊)はヴァーチャルリアリティに関する本なのだが、どちらかというとマイナーな分野であり、刷り部数も限られていたので、読者に直接お目にかかる機会があるとは思っていなかった。驚くと同時に嬉しくもあったが、そうした細部にまで目を光らせていることに畏敬の念を感じた。

 

 ロボット産業について瀬名さんは「民生用は2003年くらいまで、鉄腕アトムに代表されるエンターテインメントロボットが中心だったが、高齢化社会への加速を背景に、もっと大人にちゃんと使ってもらえるロボットが必要との考え方に変わってきている」という。

 

senaa.JPG                 瀬名秀明さん(日本経済新聞2005年2月9日付から)

                  

 ただしそれには、例えばヒューマノイド総合会社のようなものが全国展開され、ユーザーは購入したロボットをその会社に持ち込んで自分用にモディファイできる。各種のモジュールを付け替えたり、個々の家庭や会社が使いやすいようにプログラミングし、修理や中古ロボットの下取りもしてくれる――といった社会インフラの整備が必要と瀬名さんは語る。ロボットの規格統一も普及には欠かせない。

 

「高齢化社会への対応は、ロボットのキラー(決め手となる)コンテンツとしては評価できると思います。また、今後不足する労働力を補う手段の一つとしても、ロボットは大いに役立ちますよ」

 

 いま介護ロボットが増えつつあるのは、高齢社会対応のキラーコンテンツとして有望であることの証であろう。厚生労働省は平成2411月、「ロボット技術の介護利用における重点分野」を策定している。それによると、以下の4分野5項目が挙げられている。

 

 ①移乗介助

 ・ロボット技術を用いて介助者のパワーアシストを行なう装着型の機器

 ・ロボット技術を用いて介助者による抱え上げ動作のパワーアシストを行なう非装着型の

  機器


 ②移動支援

 ・高齢者等の外出をサポートし、荷物等を安全に運搬できるロボット技術を用いた歩行支援

  機器

 

 ③排泄支援

 ・排泄物の処理にロボット技術を用いた設置位置の調整可能なトイレ

 

 ④認知症者の見守り

 ・介護施設において使用する、センサーや外部通信機能を備えたロボット技術を用いた機

  器のプラットフォーム

 

 ご存知の方も少なくないと思うが、これらに対応したロボットは既に世に出ている。代表的なロボットを挙げると、移乗介助の装着型ではCYBERDYNE社の「ロボットスーツHAL」、非装着型では日本ロジックマシンの「百合菜」、移動支援ではパナソニックの「ロボティックベッド」、排泄支援ではユニチャームヒューマンケアの「ヒューマニー」、見守りではテムザックの「ロボリア」がある。

 

 これらはほんの一例で、介護関連ロボットの研究開発は大学や研究機関、企業でも進んでいる。経済産業省やNEDO(独立行政法人新エネルギー・産業技術総合開発機構)も支援に乗り出しているから、今後、拍車がかかることは間違いない。

 

 普及のカギは、やはり社会インフラの整備だろう。「社会インフラ」は、瀬名さんが指摘するようなロボット関連企業の充実やロボットの規格統一にとどまらない。いま、医療と介護の連携の必要性が指摘され、取り組みも始まっているが、仄聞するところによると、介護ロボットに関する医療側の不信や抵抗は相当に強いものがあるらしい。介護ロボット普及の真のカギはそこかも知れない。

 

 「絶対に陽の当たるところでやるべき」

 

 深夜の新宿・歌舞伎町。小料理屋のひさしを借りて雨宿りをしていた。78メートル先に大きなゴミ袋がいくつかあり、店じまいをした近くのレストランバーからも蝶タイをしたボーイがゴミを出しにきた。その姿が消えてほどなくして、スーツ姿の中年男性が現れ、ゴミ袋を開けて何やら探し始めた。そのゴミ袋には紙ゴミらしいのも入っていたから、大事な書類を捨ててしまい、それを探しているのだろうと思って見ていたのだが...。

 

 男がまずゴミ袋から取り出したのは、コンビニ弁当などに使われているプラスチック容器だった。空である。次に食べ残しの鮨と刺身を見つけ出し、容器に盛り付け始めた。さらにゴミ袋から醤油ボトルを探し出し、底に残っていた醤油を鮨と刺身にかけると、しゃがみこんだ姿勢のまま、箸でつまんで食べ始めた(箸もゴミ袋から探し出したらしい)。

 

 食べ終えると男は立ち上がり、何事もなかったように私の前を悠然と歩き去った。遠目には分からなかったが、スーツは薄汚れていた。男が立ち去ってまもなく、今度はジャンパー姿の中年男が現れ、スーツの男が漁っていたゴミ袋や他の袋も漁って食事を始めた。驚いたことに、ジャンパー姿の男が食事を終えて立ち去ると、第三の男も現れ、同じ光景が展開した。いやはや、歌舞伎町は愉快な街である。

 

 かくいう私も、実はゴミを食べたことがある。といっても、残念ながら? 彼らのようにゴミ袋を漁ったわけではない。産廃処理をして肥料化されたゴミ(食品汚泥)である。これが意外にイケた(とは少々オーバーだが、思ったほどまずくもなかった)。

 

 ゴミを食べさせてくれたのは「エコ計画」という産業廃棄物処理事業者である(同社の名誉のために言っておくと、強制されたわけではない。食べても害はないというので、私が勝手に口にしたまでである)。

 

 エコ計画は1970年(昭和45年)7月、埼玉県浦和市田島に株式会社井上興業として設立、2年後に埼玉県の産業廃棄物収集運搬及び最終処分業の許認可を取得して営業を開始している。志の高い企業で、それは創業者である井上功さん(現在、取締役社主)の次の言葉からも窺い知ることができる。

 

「設立して最初に設けたのは社員研修所でした。〈社員もいないのにゴミ屋が研修所か〉 と周囲からは笑われましたが、きちんとネクタイをして廃棄物処理に取り組みました

 

 設立3年後、JR武蔵野線が延長して同社の前に西浦和駅ができた。普通なら移転するところだろう。だが処理施設を持たない事業者が多い中で、井上さんは廃棄物の収集運搬から中間処理、最終処分に至るまで一貫して駅前の本社で事業を続けた。

 

「産業廃棄物処理は駅前のような目立つ場所でこそ、取り組むことが重要なんです。山奥で廃棄物の処理などをしてはいけない。絶対に陽の当たる所でやるべきです」

 

 現在でも同社の本社は西浦和駅前にある。こうした公明正大かつ地道な事業への取り組みが、平成9年に民間企業では初の産業廃棄物特定施設整備法の認定を取得した中間処理総合リサイクル施設「嵐山エコスペース」(平成114月、ISO14001認証取得)につながっている。同法に認定されると施設への投資について減価償却の法定期間が短縮される特別償却制度が認められ、環境省が所管する財団法人から債務保証が受けられるなどの優遇措置が得られる。

 

「もちろん、そうした資金面での効果は大きなものがあります。しかし、この認定を得られたことによって業界はレベルアップするし、社員の意識も高まる。そのことのほうがより効果は大きいと思います」と井上さんはいう。

 

inoue.jpg                  井上功さん(同社会社案内から

 

 嵐山エコスペースは敷地1万平方メートル、1日の処理能力は約500トン。集荷した廃棄物は一般廃棄物、産業廃棄物、医療系廃棄物、汚泥ごとにピットと呼ぶ倉庫に収容。産業廃棄物は粗大物、不燃物、金属、プラスチックなどに荷捌きされ、破砕、焼却、脱水、乾燥、コンクリート固化などの処理施設でリサイクル化あるいは処分される。

 

 この嵐山エコスペースに続き、20052月には「寄居エコスペース」も産業廃棄物処理特定施設整備法に基づく特定施設の認定を受ける(民間第2号。20064月、ISO14001認証取得)。寄居エコスペースは嵐山エコスペースを凌ぐ規模で、埼玉県の整備事業「彩の国資源循環工場」の中核分野である総合リサイクルにも選ばれている。

 

 同社でとくに注目されるのは、汚泥や残渣物を有機肥料化する技術。具体的には有機汚泥や食品製造後の有機性残渣物(賞味期限切れの食品など)を脱臭、脱水、乾燥、殺菌処理することによ有機肥料(有機性土壌活性剤)にする。これは窒素・りん・カリだけでなく、多くの有機成分を含む。私が食べたゴミというのがこれである。

 

 この有機肥料は「システム大地」として有機栽培農家に提供するほか、肥料の原材料として肥料メーカーにも供給しており、同社の第二の事業の柱である「食」へと繋がっている。同社は1982年(昭和57年)に日本料理店「赤坂時代屋」を東京・赤坂に開店して以降、外食産業にも乗り出しているが、その食材に有機栽培農家の産物を使うというわけだ。

 

 井上さんは感性と行動力にあふれた人で、北海道のシマフクロウの保護・増殖に取り組んだこともある。シマフクロウは体長約70センチ、翼を広げると約1.8メートルになる世界最大のフクロウで、アイヌではコタンコロカムイと呼び、コタン(集落)の守り神とされている鳥だ。

 

「たまたま訪れた冬の北海道で目にしたのですが、その迫力と気品に圧倒されました。猛禽類は我々人間よりも上の生態系バランスの頂点にいるのですが、聞けばシマフクロウの保護・増殖活動が資金難で中止になりかけているという。それで第二のトキと言われるシマフクロウの保護・増殖を引き継いだのです」

 

 この話を井上さんから聞いたのは10年ほど前で、その時点で引き継いで15年ほどになるとのことだった。引き継いだ当時のシマフクロウの生息数は約100だったのが、15年で130に増えたというから、まずは成功といえるだろう。事情があって、その後、この活動からは手を引いたということだが、井上さんの社会貢献や地域貢献活動は、40年に及ぶ本社周辺の清掃、浦和レッズパートナーシップ、浦和レッズレディース、地元のプロビーチバレー選手の支援、青少年の育成など絶えることはない。

 

 ゴミの話に戻ると、環境省の平成241227日発表のデータでは平成22年度の産業廃棄物の総排出量は約38599万トンである(総排出量の内訳は汚泥16,989万トン(44.0%)、動物の糞尿8,485万トン(22.0%)、がれき類5,826万トン(15.1%)で全体の8割を占める)。総排出量は前年比約1%(約400万トン)の減だが、最終処分量は逆に約5%増加している。

 

 これは、ものづくりの側も、産廃を出す企業側も、より循環型社会を目指す必要があることを物語っている。蛇足ながら、家庭などから出される一般廃棄物は市町村に処理の責任があるが、産廃は出す企業側に処理の責任がある。費用がかかるので不法投棄する産廃事業者もあとを絶たない。エコ計画のような志の高い事業者が増えることを望みたい。


 株式会社エコ計画

  〒338-0837 埼玉県さいたま市桜区田島8-4-16

   TEL 048-862-5011 FAX 048-864-4821

   URL http://www.eco.co.jp






日本は徳治国家、中国は人治国家

 

 高校のころ、漢文が苦手だった。模擬試験で戻ってきた答案用紙に「(現代国語の出来に比べて)これはあまりに見劣りする」と添え書きがしてあったくらいである。あまりの出来の悪さに、採点した先生も呆れたのであろう。

 

 だって、わからないのだから仕方がない。ずらりと並んだ漢字の傍らに小さく「一」とか「二」とか「レ」がふってあって、それで読み下せと言われても"順列組み合わせ"がわからない。五言絶句のような短いものでも事情は同じだった。

 

 それから数十年たって、NHKの「漢詩紀行」という番組を観たとき、目から鱗が落ちたような気分になった。原語で音読する漢詩のなんと美しいことか。原語では順に読んでいく。読み下しのように行きつ戻りつしないので、韻を踏んでいるのがわかる。これが聴いていて心地よい。高校の漢文の先生があんなふうに読んでみせてくれてたら、私は漢文を勉強する気になったかもしれない(と、ひとのせいにしてはいけない)。

 

 その漢文の中国を代表する人物の一人が『論語』でお馴染みの孔子。その孔子第75代直系子孫という孔健(こう・けん。本名:孔 祥林)さんにお会いしたのは8年ほど前のことだ。孔健さんは作家・評論家・大学教授で、日本語の中国情報専門紙『週刊チャイニーズドラゴン(中国巨龍)』の編集主幹でもある。著書も多く、テレビにも出演しているのでご存知の方も少なくないだろう。


koukenn.jpg                   孔健さん

              

 孔健さんは19585月生まれ、中国青島市出身。中国・山東大学を卒業後、1985年に来日し、上智大学大学院新聞学科博士課程を修了している。博士論文を出す前に『チャイニーズドラゴン』を創刊して、ゼミの教授(武市英雄氏)に「論文を出す前に新聞を出す奴があるか」と怒られたという。

 

「当時は日中間の交流やビジネスが盛んになる一方で、中国に関する情報が少ないため、相互理解に役立つ新聞を出したいという思いを抑えることができなかった」と、孔健さんは語る。

 

 日本語で読める中国情報紙としては初めてだったこともあって、『チャイニーズドラゴン』は大きな注目を集め、北京の人民大会堂で開いた記者会見・レセプションには日本から飛行機をチャーターして150人ほどが参加した。帰国してホテルオークラで1200人ほどを集めて開いたパーティーには中国からも50人ほどが参加、意気揚々の船出だった。

 

 だがその後、船は何度も嵐に遭う。「あの時代、私は毎晩深酒をして自分を麻痺させていた。できれば翌日、目を開けなくても済むようにと願ったりもした。目を開けたら、借金のことを考えてしまうから。そうやって自分を麻痺させながら、〈2500年前のご先祖様もきっと苦労したんだろうな〉と思ったものだった」

 

 ご先祖様こと孔子はかつて匡(きょう)の地で拘束され、自殺するしかないような状況に追い込まれた。「私も似たような状況だった。死に場所を求めてさまよったことが56回はある」

 

 だが、日中交流に役立つ情報を伝えたいとの強い思いと使命感から、孔健さんは歯を食いしばって『チャイニーズドラゴン』を発行し続けた。そんな孔健さんに悪魔も忍び寄ったが、天使も微笑んだ。いま孔健さんは経営を他の人に任せ、編集主幹として日中の橋渡しに精力を注いでいる。

 

 孔健さんの目に日本はどう映っているのか。「『論語』が経営や社会に根付いているのは日本が一番」として、次のように語る。

 

「日本の社会はピラミッド構造になっており、そこに孔子の思想が三本入っている。まず、上下関係を大事にすること。次に、教育のよさ。孔子は『有教無類』(人は教育の善悪によって支配される)と教えているが、これは言い方を換えれば教育は誰でも受けるべきということであり、日本はそれを実践し優秀な人材の輩出に繋がった。第三はモラル(道徳)。私に言わせれば、日本は本来、こうした『徳』を基本にした"徳治国家"だ」

 

 ちなみに有隣堂という書店があるが、これは孔子の「徳不孤、必有隣」(徳を積んでいれば決して孤立しない。必ず理解者が現れる)からきている。

 

 ただ、惜しむらくは今の日本は法治国家を指向し、米国追従になっている。その結果、「取引先や社員の気持ちを忖度し、皆が気持ちよく仕事をするという、日本人が永年大切にしてきたものをお金の論理だけで切り捨てているように見える」と、孔健さんは危惧する。

 

「最近の日本は、かつて有していた美徳をどこかに置き忘れている。とくに若者の礼儀はなっていない。むろん常に例外はあるが。だからもっと小学校からの基礎教育をしっかりしてほしい。『論語』では〈修身、済家、治国〉を教えている。修身とは礼儀正しく、よく勉強すること。その上で家をしっかり整えるのが済家。そうやって修身と済家がなされることによって国の基盤ができ、経済も豊かになる。そうなれば天下は自ずと治まる」

 

 「日本は本来、徳治国家である」との孔健さんの指摘は、わが身を振り返ると耳に痛い。上下関係をそれほど気にしてこなかったし、不勉強だし、あんまり道徳的でもないしなあ。これを機会に改善に取り組んでみようか...。

 

 ところで中国といえば、先に開かれた全人代(中国共産党全国人民代表大会)で第7代国家主席に選ばれた習近平氏は「法に基づいた国づくり(法治国家)」を目指す姿勢を打ち出している。全人代の前に開いた中国共産党中央政治局の学集会でも、習氏は「憲法と法律の実施を強化し、社会主義法律体制の統一、尊厳、権威を維持し、人々の違反を防ぐ法的環境を構築していく」といった発言をしている。

 

 大きなお世話だろうが、志は買うとして実現は並大抵のことではないだろう。なぜなら、孔健さんによれば中国は"人治国家"だからである。

 

「日本人の多くは中国が法社会と思っているだろうが、それは違う。中国は生産量を国家が決め、それに基づいて国営企業や人民公社が生産を行なう計画経済のため、人の要素が介入しないように見えるが、実際は権力は共産党と政府要人に握られ、彼らのゴーサインがなければ事は運ばない。つまり中国は人治主義、人治国家なのだ」

 

 個人が生活や習慣を変えるのさえ容易ではない。いわんや、国家体制の変革においておや、である。といって、法治国家を目指す習氏にケチをつけるつもりは毛頭ない。ぜひとも法治国家を実現してもらいたいものだ。

 

 蛇足ながら、私は干武陵の「勧酒」という漢詩が気に入っている。

 

 勧君金屈巵 君に勧む金屈巵(きんくつし:柄のついた黄金製の酒器)

 満酌不須辞 満酌(なみなみ注いだ酒)辞するを須(もち)いず

 花発多風雨 花発(ひら)けば風雨多く

 人生別離足 人生別離足(おお)し

 

 これには文豪井伏鱒二の次のような名訳がある。

 

 コノサカヅキヲ受ケテクレ

 ドウゾナミナミツガシテオクレ

 ハナニアラシノタトヘモアルゾ

 サヨナラダケガ人生ダ

 

 梅は咲いたし、桜も咲いた(桜前線北上中)。桃も辛夷(こぶし)もいまぞ時。皆さん、勧酒といきますか。


「時代に先行するソリューションを」

 

 電車の時刻や乗り継ぎの最短ルート、料金などを知りたいときはパソコンを使っている。到着時刻から逆算して乗る時刻を調べることも簡単で、いまさらながら便利な世の中になったものだと思う。

 

 最寄駅から目的地までは地図に頼っているが、こうしたパソコン―地図という"ハイブリッド型"はもはや少数派かもしれない。いまは路線検索だけでなく、目的地までの経路探索も携帯電話のナビゲーションシステムを利用する人が多いようだ。

 

 先日も若い知人が携帯電話で路線検索をしていたのでどのアプリを使っているか訊いたら、「駅すぱあと」だという。

 

「ほう、駅すぱあと。なぜそのアプリを?」

「なぜって...。これは路線検索の草分けですからね」

 

 知人の顔に、自分は早くから路線検索システムを使っているのだという自慢げな様子が浮かぶ。幼い競争心を刺激されて訊いた。

「駅すぱあとは、ヴァル研究所というソフト会社が開発したんだよ。知ってる?」

「ヴァル研究所? 知りません」

「そうか。島村さんという人が創業した会社なんだ」

「その社長をご存知なんですか」

「うん、取材で何度もお会いした。とても紳士的な人でね...」

 

 そう、島村さんは紳士的で、好奇心旺盛で、誠実な人だった。ヴァル研究所は東京・高円寺で創業し、業容拡大に伴って代々木、大久保と移転した。なぜ大久保かと訊くと、島村さんはニコリとして言ったものだ。

 

「ここで早稲田の学生を一本釣りしてやろうと思ってね」

 

 大久保の事務所はJR新大久保駅から、島村さんの出身である早稲田大学理工学部に向かう通りの中間点にあった。中小企業が有名大学の学生を採用するのは難しいが、ここに"網"を張っておけば早稲田の学生がアルバイトや社員として来てくれるかもしれない、という読みだ。

 

 代々木の頃は手狭で叶わなかったが、大久保に移転して広くなって島村さんは社長室を設けた。4~5坪、いやもう少し広かったかもしれない。そこは一般の社長室とは少々趣を異にしていた。普通なら経営書などが並びがちな書棚は、エジプト考古学関連書籍で埋め尽くされていた。数千冊はあったろう。

 

「いいでしょう。やっと整理ができましたよ」と、部屋の片面を占めた書棚を見やりながら、島村さんはご満悦だった。氏は知る人ぞ知るエジプト研究家で、エジプト考古学の第一人者である吉村作治氏とも入魂だった。同じエジプト好き、同じ早大、歳も一つ違い(島村さんは19425月、吉村氏は19432月の生まれ)と、親しくならないのがおかしいほどで、当時、早大の助教授だった吉村氏の将来を島村さんは案じてもいた。

 

「エジプト考古学というマイナーな分野ですからねえ。もしかしたら、彼は教授になれないかもしれないなあ...」。幸い、それは杞憂に終わり、吉村氏は早稲田の教授になった(現在、名誉教授)。


 

shimamura.JPG                              島村隆雄さん(写真提供:BCN

 

 

 島村さんのエジプト好きは、ヴァル研究所が開発したソフトの商品名にも反映している。データ処理ソフト「パピルス(8ビット用)/ぱぴるす(16ビット用)」、「ほるす」「ファラオ」、端末エミュレータ用ソフト「アンク80」、アプリケーション開発ソフト「ナイル」――といった按配で、大久保事務所の一階の応接室には本物のパピルスの鉢植えが置いてあった。蛇足ながら、紙を意味する英語のペーパー(paper)は、このパピルス(papyrus)に由来する。

 

 いま、ソフト「パピルス」を「データ処理ソフト」と紹介したが、当時(8ビット用の発売は1983年、16ビット用は1984年)、このソフトは「統合ソフト」と呼ばれていた。一つのアプリケーションでワープロや表計算、データベースなどの処理ができたからで、統合ソフトの標準をなすものとして注目された。

 

 それを可能にしたのは、「時代に先行するソリューションを徹底して追及したい」とする島村さんの姿勢にある。パソコンのCPU8ビットから16ビットに進化するや、ほとんどのソフト会社は16ビット対応のワープロや表計算、データベースなどの開発を目指した。しかし島村さんは8ビットの世界で徹底して統合ソフトを追求した。それは、ユーザーの利便やニーズを考慮したからに他ならない。

 

 説得力のあるビジネス文書を作ろうとすれば、文章だけでなく表やグラフも必要になる。そのことを島村さんは見通していた。「時代に先行するソリューション」とは、そういうことだ。8ビットで完成度の高いソフトができれば、16ビットでもそのクオリティは生きる。

 

 ちなみに「ヴァル」はVALVery Advanced Language)からとったもので、より進化したコンピュータ言語の研究・開発を目指すことを意味する。実際、ヴァル研究所は仕様書記述言語「SPECL-I」、自由構文解析プログラム「FELP」、ソースコード・ジェネレータ「SPECL GEN」といった言語関連の開発からスタートしているが、コンピュータ言語は広義にはソリューションと解釈してもいいだろう。

 

 初めに紹介した「駅すぱあと」も、そうした理念に基づいたものだ。駅すぱあと、というソフト名は人工知能(AI)のエキスパートシステム(ES)に由来する。ESは専門家の知見やノウハウをコンピュータ化するために当時注目された技術(プロダクションシステム)。駅すぱあとは島村さんの友人だった上智大学教授の検索アルゴリズムを援用して開発されたと記憶している。

 

 いま、さまざまな路線検索システムが登場しているが、先行したのは「駅すぱあと」である。そして多くの利用者を得ていることは、島村さんの徹底したクオリティ追求の姿勢があったからに他ならない。

 

 ヴァル研究所は現在、創業の地である高円寺で着実な成長を続けている。惜しむらくは、島村さんは19966月に亡くなられた。同社では来る214日、「駅すぱあと」販売25周年(222日が25周年)を記念したホームページ「エキラボ」を開設する。


  株式会社ヴァル研究所

    〒166-8565 東京都杉並区高円寺北2-3-17

    電話 03-5373-3500 FAX 03-5373-3501

     ホームページ http://www.val.co.jp/


「長幼の序の気持って大切だと思います」

 

 昨年(2012年)末のNHK紅白歌合戦では東方神起、KARAといったK-POP(韓国大衆音楽)の姿が消えた。竹島問題を起因とする日韓関係の冷え込みが背景にあるらしい。知りうる限りの情報では、竹島に関する日韓の主張は日本に分があると私は思うが、政治問題で文化芸能活動が制限されるのは不幸である。

 

 K-POPの先駆者ともいうべきキム・ヨンジャさんが今年2910日に予定していた世宗(セジュン)文化会館でのコンサート(日本からのツアーが組まれていた)も中止になった。理由は明かされていないが、同じ事情からだろう。世宗文化会館はソウル特別市にある韓国(大韓民国)最大の複合芸術施設だそうである。そしてヨンジャさんは韓国の美空ひばり的存在の歌手だ。残念なことである。

 

 ヨンジャさんにお会いしたのは7年ほど前になる。東京港区・芝公園のメルパルクホール(東京郵便貯金ホール)での公演を終えて一階のコーヒーラウンジにやってきたヨンジャさんは、小柄な体からエネルギーを発散させていた。

 

 キム・ヨンジャ(金蓮子)さんは1959125日、韓国全羅南道光州市の生まれ。韓国TBCテレビの歌謡新人コンクールに二度優勝し、プロデビューした。1981年に発表した「歌の花束」は360万枚のゴールデンディスクとなった(取材した時点でこの記録は破られていない)。初来日は1977年である。

 

 韓国の美空ひばり的存在と書いたが、ヨンジャさん自身、美空ひばりを尊敬しているという。

 

 「知り合いがひばりさんのレコードを持っていて、日本にはすごく歌のうまい人がいるんだよって、港町十三番地を歌ってみせてくれた。わたしも真似して歌ってみたけど、こぶしについていけない。すごいねって感心したら、じゃあ、オリジナルを聴かせてあげるって。それで初めてひばりさんの歌を聴き、感動したのを覚えています」

 

 歌謡新人コンクールの優勝が日本のレコード会社の目にとまり、19778月に来日して、その年の11月にはアルバムとシングルを同時発売した。「すごいでしょう? 日本にくるなりレコーディングして、アルバム発売という破格の待遇!」

 

 レコーディングしたのは韓国の歌謡10曲。1番と3番は日本語、2番が韓国語という構成で、日本語を特訓してのレコーディングだったが結果はあまり芳しくなかった。帰国し、三年後に再来日したが、それは歌手としての闘争心を鼓舞されたからだという。

 

 「口幅ったいことを言うようですが、お金のためだけなら韓国で歌っていれば充分やっていけました。でも、よい仕事がしたくて日本にきた。日本はステージの設備や環境が素晴らしく、なによりお客様の質が高くやりがいがあります。そうしたレベルの高い日本で仕事がしたかったのです。おかげさまで今ではよい仕事ができるようになりました。ですから、わたしは日本で育てていただいたという気持ちを強く持っています」

 

 そのお返しを少しでもしたいと、ヨンジャさんは数多くのチャリティコンサートを開いている。例えば1991年の雲仙普賢岳噴火の被災地である長崎・島原では終息宣言が出るまでの5年間、毎年自主コンサートを開き、被災者を励ました。

 

 「初回は6割ほどの入りで、お客様は暗い表情をされていました。それが2回、3回と続けていくうちにお客様の表情がだんだん明るくなっていったんです。とても感動的でした。わたし自身、ああコンサートを続けてよかったと、とっても嬉しくなった。そして、日本語でいう報恩というのはこういうことだったんだ...と、しみじみ思いました。相手を癒したり励ましたりしてあげているつもりが、いつしか自分も癒され励まされるのです」

 

 1995年の阪神淡路大震災でも発生5日後に、交通手段に苦労しながら被災地を訪れ、ミニコンサートを開いた。全国の刑務所を訪問して受刑者を慰問する公演も40回以上開いているし、海外での被災者慰問活動も続けている。

 

 「わたしは歌手ですが、その前に一人の人間でありたい。ですから、これからもこうしたチャリティコンサートや慰問公演を続けたいと思っています」

 

 話を聞いていると、ヨンジャさんが韓国人であることを忘れそうになる。


 「わたし、どこか日本人っぽいところがあるんですよ。韓国人って、仲がよくなると相手との一線を取っ払って何でもしてあげたいタイプ。それはそれでいいと思うけど、だからといって相手にズケズケと入ってこられるのも、わたしはいや。それは18から20歳までの人格形成に一番重要な時期を日本で過ごしたことが影響しているみたい。ですから韓国では、日本人っぽいとよく言われます(笑)」

 

 だが、いまでも歌い方は韓国人だと思うという。「だってカンツォーネが好きだし、大きな声で歌うのが得意ですし。語るような歌い方とか、ソフトさ、優しさといったものは日本にきてから勉強しました」

 

 歌い方だけではない。考え方にも韓国人としての根のようなものが生きている。


 「わたしは儒教が大好き。なぜかというと長幼の序、つまり年長者は年下を慈しみ、年下は年長者を敬うという考え方が好きだからです。子供が大人になり、お父さんになり、お爺さんになり、やがては死を迎える。これって、皆が辿る人生の順番なんですよね。それなのに、子供や若い人がお父さんやお爺さんを馬鹿にしてどうするんですか。自分たちはお父さんやお爺さんにならないんですか? 韓国人として日本の若い人を見たとき、一番歯がゆいのはそこですね」

 

 ネット社会になり、グローバル化が進んで、ビジネスでは過去の成功例は役に立たないといった風潮がある。学校では教師も生徒も平等という意識があるとも聞く。そうしたことが、日本で長幼の序が薄れている要因かもしれないが、ヨンジャさんの指摘は傾聴に値する。

 

 「韓国人は目上の人を大事にします。それは自分たちがいずれ辿るべき順番であり、人生の道であることを承知しているから。でも日本の若い人たちは、あたかも自分はそこに辿らないかのような物言いをすることが少なくない。ですから、いずれあなたたちもその世代、年齢を辿るのよ、という教育や環境づくりが必要なのでは? まず大事なのは現在の家族。その次に大事なのは過去の家族。そして隣近所の人たちとの輪。そういうふうに輪、輪、輪で広げていけば、隔絶した他人意識というものは生まれないと思うのです」

 

 東日本大震災以降、日本でも「絆」意識が生まれた(この言葉にはどこか欺瞞を感じて私は好きではないが)。だが、独居老人は増える一方で、孤独死も減らない。「長幼の序」を再教育する必要があるのではないか。ビジネスで過去の成功が役に立たないという面があるのは否定しない。だがそのことと、年長者を尊重しないということは同列に考えないほうがいい。

 

kim.yonja.JPG

                  キム・ヨンジャさん 

 

キム・ヨンジャさんのオフィシャルサイト

  http://www.kimyonja.com/


 

 「創造力に恵まれた日本の地方の環境を活かそう」

 

 飛行機のパイロットが一番緊張するのは離着陸のときだそうである。安定した地面から不安定な空中に飛び出したり、空中から着地するわけだからさもありなんと思うが、取材者の場合は相手に最初の質問を投げかけるときであろうか。

 

 私の場合、飛び込みで取材することは少なく、大抵は事前にアポイントを取るので、相手がどこの誰であるかは予め分かっている。だが初めての相手に対しては大なり小なり緊張する。相手がどんな性格なのか、こちらの質問の意図や意味をきちんと理解してくれるか、どこまで本音を話してくれるか――。

 

 紀井奈栗守(きいな・くりす)さんに初めて会ったときも少なからず緊張した。日本語を話すが、本名はクリストファー・キーナというガイジンさんだから、なおさらだ。だが紀井奈さんには面食らわされた。名刺交換して訪問の意図を改めて説明し、取材を始めようとしたら、紀井奈さんはこう言ったのである。

 

「近くにいい温泉があるから、行きませんか?」

 

 紀井奈さんは株式会社鴨(かも)というコンサルティング会社の社長で、同社は長野県上山田町にあった。温泉好きの人はご存知と思うが、上山田といえば温泉の町である。訪ねた時間も午後遅かったし、取材が長引いたら最終列車で帰ればいいと思っていたから、ままよと誘いに乗った。

  

 温泉の浴場は徒歩数分のホテルの最上階(五階か六階だったと思う)にあった。風呂に入るには時間が早いせいか、利用客は我々のほかに中年の男性が一人しかいない。窓越しに雪を頂いた山が迫り、いい眺望だった。そこで世間話をしているとくつろいでしまい、仕事のことを忘れそうになって弱った。

 

 このときの取材はデータベースソフトをどう活用しているかを訊くのが目的だったのだが、温泉から戻ってみると紀井奈夫人の明子さんがビールやつまみを用意してくださっていて、またまた弱った。私は下戸の部類に入るが、決してアルコールが嫌いではないのだ。

 

 だがここは心を鬼にしてビールを一口飲んだだけで取材を再開し、短期集中型? でとにかく記事をまとめるのに必要最小限のことは訊いた。だが今から思えば、まんまと紀井奈さんの術中にはまった気がしないでもない(といって、紀井奈さんが何かを隠すために取材者を歓待することによって煙に巻くとか、そういう必要は何もなかったはずだが)。

 

 その後、紀井奈さんには別のテーマでの取材や仕事以外でも何度かお会いした。紀井奈さんは米国コネチカット州の出身で、ブラウン大学でコンピュータ科学を学んだあと、カリフォルニア州立大学バークレー校で文化人類学の理学博士を取得している。博士論文は長野県坂城町を研究した「ある地方都市の奇跡――高度成長期の工業発展」というものだ。

 

 「坂城町は人口16000人ほどなのに400社近い中小企業があった。単純計算すると40人に1人は社長なのです。なぜそういうことが可能だったのか、誰にも分からない。行政が計画をしたわけでもなければ、大企業の下請けでもない。そこで調べていくと、旺盛な起業家精神があった。偶然も作用していますが」

 

 坂城町は工業の町というイメージが強いと思うが、産業廃棄物などの汚染の心配がない。それは坂城町の中小企業の環境に対する意識の高さや行政の努力が背景にある――と紀井奈さんは指摘する。

 

 「一方で坂城町は農業も盛んで、住宅地もあり、なんといっても自然が身近でとてもバランスが取れている。私の仕事は創造力を必要とするのでこの環境から力を貰っているが、実はこのことは坂城町に限らない。日本はどこに行っても豊かな自然がある。その中で創造力を働かせながら、競争力のある製品を生み出していくのに、日本の地方ほど恵まれた環境はないのではないかと私は思うのです」

 

 紀井奈さんの会社は日米企業のビジネスの橋渡しを行なっており、日本側の企業の顧客は東京の会社が多い。こうした場合、普通は東京に会社を構えがちだが、紀井奈さんの会社は現在、坂城町にある。それは東京だと経費がかさむこともあるが、主因はバランスの取れた環境にあるという。

 

 「日本の企業は少し大きくなると会社を大都市、とくに東京に移したがるが、いかがなものか。地方にいてこそ発揮できる強みや特徴づくりを、わざわざ経費のかかる大都市に出て、その他大勢になることはないのではないでしょうか」

 

 人の多く集まるところでないと成り立たないサービス業のような業種だと大都市が必要になろうが、ものづくり全般、とくにパソコンソフトやスマホアプリの開発などは、紀井奈さんの指摘するように日本の地方はいい環境にあるといえるかもしれない。

 

 株式会社鴨 :〒389-0601 長野県埴科郡坂城町坂城6362-1 BIプラザさかき内

          tel 0268-81-1350 fax 0268-81-1351

          http://www.kamoinc.com/

 「自分の頭で考え、自分でモデルを創りだそう」

 

 木枯し紋次郎ふうに言えば(旧いなあ!)、あっしにゃ縁のねえこって、ということが私にはいくつもある。その最たるものの一つが東京大学だ。こっちで縁をもちたくとも、私のおつむでは向こうが相手にしてくれない。

 

 その東大の総長秘書室というところから、ある日一通のメールがきた。小宮山宏総長が本を出すので手伝わないか、というものだ。小宮山さんは「知識の構造化」を提唱していて、それをテーマにした講演は多い。著書もあるのだが、講演をもとにしたよりやさしい解説書を出したいということだった。私ごときがと思ったが、光栄なことでもありお受けした。2006年のことである。

 

 じつはその年の春、日経BP社から『東京大学21世紀COE 未来へ続く「知」がここにある』という本が出ていて、私はそのとき東大の7拠点のCOEを取材し原稿を書いた。それが背景にあったようだ。

 

 ちなみにCOECenter Of Excellence)というのは文部科学省が2002年から取り組んでいる研究拠点形成等補助金事業で「日本の大学に世界最高水準の研究教育拠点を形成し、研究水準の向上と世界をリードする創造的な人材育成を図る」のが目的。スタート当時は「21世紀COEプログラム」という名称だったが、2007年以降は「グローバルCOEプログラム」として継続している。私が取材した頃は全国に約300COE拠点があり、そのうちの28拠点を東大が占めていた。

 

 本郷の総長室でお目にかかった小宮山さんは、学者というより知的でエネルギッシュな企業役員といった雰囲気だった。自己紹介をかねて拙著(『トコトンやさしいパーソナルロボットの本』)を差し出すと、パラパラとめくって「そうそう、こういう簡潔な書き方がいいんだよ」と言われた。ざっくばらんで、どこかべらんめえ調の口調(小宮山さんは1944年、疎開先の栃木・宇都宮で生まれているが、育ちは東京・新宿)に、私の緊張はいっぺんに解けた。夏目漱石の『坊っちゃん』が好きだというのもうなずけた。

 

 その後も、知識の構造化の考え方や講演の不明な点の確認などで何度かお会いしたが、飾らず、率直な物言いは同じで、知らないことは知らないとはっきりと言われる。おかげで余計な気を遣わずに済んだ。本当に賢い人は、やはり賢いのである。

 

 それだけに、5つほどの講演をもとに文章化するにあたっては可能な限りの注意を払った。関連書籍を読み漁り、小宮山さんの新たな講演も聴きに行ったりした。そして己の知識レベルの低さに辟易しながら、〆切を劇的に? 超過してやっと文章化作業を終え、『知識の構造化・講演』として陽の目をみた。小宮山さんにも版元のオープンナレッジ社にも多大の迷惑をかけてしまった。

           

 このお手伝いはとても勉強になった。知識の構造化の必要性を説くにあたって小宮山さんの言及する対象は人口、食糧、資源、エネルギー、環境、地球温暖化、ゴミなどに関する問題から、教育問題や構造主義にいたるまで実に広範で、それに何とかついていかなければならない。ソシュールやストロースといった構造主義者や、ストロースとサルトルの論争(サルトルが負け、実存主義は色あせた? らしい)などはこのとき初めて知った。おぼろげな知識の輪郭が明確になることも数限りなくあった。

 

 「知識の構造化」とは何か。小宮山さんによれば「細分化された分野に分散した膨大な知識を、相互利用可能にすること」である。世の中は複雑化し、学術や研究は細分化され深堀りされていく。IT化が進んで知識はビッグバンを起こしており、インターネットを使えば必要な情報はすぐに得られるが、それは巨大なジグソーパズルのピースを見ているのであって、知識の全体像が俯瞰できていない。そのため、専門家であっても判断ミスを犯すことが出てくる。

 

 その象徴的な例として、『行動と脳科学』というこの分野のトップジャーナルが1982年に行なった論文の再投稿実験がある。それは、12の学会誌から過去3年間に出た論文を選び、再投稿するというものだ。ただし、まったく同じ条件では検索システムに弾かれてしまうので、著者や所属、タイトルなどを変えた。12の論文が再投稿された学会では、編集責任者や査読者合計38人が目を通したが、そのうちの35人は再投稿であることに気づかず、再投稿なので駄目だと指摘したのは3人しかいなかった、という。

 

 ことほどさように、いまや知識は爆発的に増加しているのに、活用できない状況に陥っている。これを解決するには構造化知識(関連づけられた知識群)と人とITが三位一体となって機能する必要があると、小宮山さんは説く。

 

 少子高齢化、環境、エネルギー問題をはじめ、日本はこれから世界が遭遇するであろうさまざまな課題を先取りした「課題先進国」であるとも小宮山さんはいう。知識の構造化は、そうした課題を解決するためにも有効で「課題解決先進国」となることによって、日本は世界のフロントランナーになれる。そしてフロントランナーとしてやっていくためには自分の頭で考え、自分でモデルを創りだす必要がある――。

 

 「自分の頭で考えるっていうけど、大概は誰かが言ったことを繰り返しているだけなんじゃないかと思うんだよ。本当に自分の頭で考えるときに大事なのは、わかった! という実感。体感としてわかるんだな。わたしは40歳の頃、エネルギー保存則について、わかった! と実感した。だから、どんな人にどんな角度から聞かれても答えられる」

 

 体感としてわかると、やさしいそうである。だからやさしく説明できるが、あんまり説明がやさしいと、学者先生の小難しい解説を期待した人からは拍子抜けした反応をされることもあるらしい。いずれにしても、皆さん、誰かの受け売りではなく自分の頭で考えるように致しましょう(と、これも小宮山さんの受け売り?)。

 

 

chishiki.JPG                  ◎小宮山宏著『知識の構造化・講演』

 

 ㈱オープンナレッジの連絡先

  電話 03-3812-1730 FAX 03-3812-7644

  URL http://openknow.com


 「過程を重んじることが人生を豊かにする」

 

 このブログのタイトル「生縁察智」(しょうえんざっち)の「生縁」は、「袖振り合うも多生の縁」から採った。なので、一度しか会ったことのない人でもインパクトが強ければ採り上げる。そんな一人が数学者で大道芸人でもあるピーターフランクル(Peter Frankl)さんだ。

 

 フランクルさんには2005年、東京・渋谷にある彼のオフィス「富蘭平太事務所」で会った。グローバリゼーションの名の下、日本人の持つ美しい風習が失われつつある。そのことに対する警鐘を在日外国人に鳴らしてもらう、というのが取材の目的である(20062月、『なぜニッポン人は美しい風習を捨てるのか―親日家8人からの熱きメッセージ』のタイトルで明拓出版から刊行))。

 

 会ってまず驚いたのは、その胸板の厚さである。大柄ではないが、大胸筋の盛り上がった逆三角形の胸は相当に鍛えている感じだった。だがそれは序の口で、日本に対する知識や理解の深さにさらに驚かされることになった。

 

 フランクルさんは19533月生まれ、ハンガリーの出身である。18歳のときに国際数学オリンピックで金メダル、24歳で数学博士号を取得。ユダヤ人のため、両親や家族はアウシュビッツ収容所に送られ、両親は九死に一生を得たが、両親の家族は全員ガス室で殺害された。「もし神がいるのなら、このように罪のない人々を苦しめることはないはずだと両親は無神論者になった」とフランクルさんはいう。ご両親はともに医者である。

 

 自身も差別に遭っている。たとえば7歳のとき、隣家の女の子と遊んでいて言い争いになり、言葉に窮した女の子から「臭いユダヤ人」と罵られた。「ユダヤ人と判らないよう、キリスト教の国ならどこにでもあるような〈ピーター〉という名前をつけてもらったにもかかわらずです。だからハンガリーは祖国というイメージはかなり薄い。ぼくはハンガリーを祖国と思っても、国民の多くは認めてくれない」

 

 それならばと、フランス人になりきるつもりで仏文学を勉強して亡命したフランスでも事情は同じだった。欧州がだめならと亡命したアメリカでは、欧州ほどの差別はなかった、ものの別の壁にぶつかった。そこで研究員交換制度を利用して訪日することにした。

 

 じつはフランクルさんは、1972年に訪日した両親からいい国だと聞かされ、好感を持っていた。また両親の招きでハンガリーを訪れた日本の大学教授に会い、聡明で寡黙で礼儀正しい教授に、日本に対してさらに好印象を抱いていた。

 

 はたして、19829月に訪れた日本は「地球上の天国のように映った」。差別のない公平な社会であり、国民は一億総中流といった感じで仲のよい雰囲気があり、好奇心旺盛で、聞き上手で、礼儀正しく、とても親切だった。

 

 だがそれから四半世紀を経て「日本人はマイナス思考になっている人が多い」とフランクルさんは警鐘を鳴らす。郵政民営化への賛成や、議員年金への反対の背後には「自分よりいい生活をしている人への妬みがある」と見る。タカ派政治家のナショナリズムにも危険を感じる。

 

 「愛国心や愛国主義はいい意味でのナショナリズムという言い方があるが、それは違う。ナショナリズムは国粋主義であり民族主義であって、愛国心や愛国主義を表わす英語はパトリオティズム(Patriotism)です。国粋主義は一つの物差ししか持たず、自国が全ての面で優れていると考える。一方、愛国主義は世の中を客観的に捉え、相手の国を否定することなく自国の文化や人を愛することで、それはとても美しい」

 

 フランクルさんは、大好きな黒澤明や溝口健二、大島渚といった監督の作品が映画館で上映されなくなったこと、商店街の減少による広場文化の衰退から、中選挙区制の必要性、美しい日本語の衰退まで、さまざまな面で警鐘を鳴らす。11カ国語を話せるフランクルさんに「習得するには複雑で難しいけれども、逆にそれゆえに美しい日本語が、カタカナ語にどんどん侵食されていくのはとても寂しい」と指摘されると、こっちまで寂しくなってくる。

 

 「民族としての意識は、使っている言語が母体になる。その言葉が消えたところは、民族も滅びた。その伝でいくと、いまの日本語の乱れや衰退は、民族としての日本人の存亡の危機につながるのではないか」

 

 こうした警鐘の詳細は先に紹介した『なぜニッポン人は美しい風習を捨てるのか』を読んでいただきたいが、最後にもう一つだけ紹介しておきたい。それは、日本人の生き方や国の舵取りに関する話である。アメリカとの比較で、フランクルさんはこう語る。

 

 「アメリカは結果重視の社会で、どんな手段を講じてもいいから、とにかく勝つべきと考える。だから、広島と長崎に原爆を投下したことにアメリカ人は罪の意識を持っていない。それによって戦争が早く終わったのだから、意味のあることをしたと思っている」

 

 「一方、日本は本来、過程を重んじる文化で、それをわかりやすく説明してくれるのが茶の湯だ。結果だけを見ると茶の湯は、わずかな量の抹茶を飲んで、小さな和菓子を食べるだけだが、茶室に入り、正座して瞑想状態になり、空間と一体感を感じながらお茶を一服いただく。ぼくはこうした作法に贅沢を感じるし、時間の流れを感じて、本当に素晴らしいと思う」

 

 「人生を考えれば、結果は皆同じ。皆、死ぬのです。そして火葬場に行く。だからといって、早く火葬場に着いた人が勝ちでもないし、皆死ぬからといって、それで人生に意味がないわけでもない。人生の意味はまさに生きる過程にある。だから、過程を重んじることが人生を豊かにすると思うのです」

 

 日本が大好きなフランクルさんは、これからも日本で暮らしたいと思っている。だが国粋主義がもっと強まって、かつて小泉八雲が大学を追い出されたように外国人排斥運動が起きるような事態にでもなったら、「仕方なく日本を出て世界放浪を再開するかもしれない」という。

 

 経済活動で諸外国とこれだけ絡み合っているいま、そのようなことは起こりようがないと私は思うが、フランクルさんの警鐘には大いに耳を傾けたい。

 

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                              フランクルさんの警鐘を所収した書籍   

 

 明拓出版の連絡先:電話/FAX 0742-48-1898

              メール meitaku@yellow.plala.or.jp                   






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