2012年10月アーカイブ

「パソコンはヴァーチャルマシン」

 

 NEC(日本電気)の水野幸男さんに単独取材をしたのは数えるほどしかない。パソコンの隆盛期にIT専門紙の記者を7年近くもやっていた身としてはお寒い限りで恥じ入るばかりだが、水野さんには記者としての姿勢を問われたという思いが強い。

 

 1984年だったと思うが、当時「ソフトウォーズ!」というタイトルでソフトウェアのキーパーソンを取材していて、水野さんにもお会いした。のちに水野さんはNEC副社長、情報処理学会会長などを歴任しているが、そのときは常務だった。

 

 水野さんには主としてパソコンOSについて訊いた。いまではWindow 8発売のニュースがNHKでも報道される時代になったが、当時はパソコンOSなど業界内の話で、恥ずかしながら私自身、OSのことはよく解っていなかった(これは今もって変わらない)。にもかかわらず、斯界の権威にOSの取材をしたのだから、今から考えれば蛮勇、笑止というほかない。

 

 だが水野さんは紳士で、当方の質問にきちんと答えてくれた。例えばこんな按配である。

――日電のPCは独自のOSのほかにMS-DOSCP/Mも採用しているが、それらをどう評価しているか。

水野 従来のOSはハードウェアから出ているが、MS/DOSCP/Mはソフトハウスが使いやすさをポイントに開発したもので、注目している。どちらがどうとは言えないが、基本的にソフトウェアはMS/DOSCP/Mそれぞれの上で動く必要がある。そのためにはPCはインポート、エクスポートのポータビリティを持つ一種のバーチャルマシン(仮想機械)という考え方も必要といえよう。


KC3P0070.JPG                  ◎水野幸男さん(BCN『ソフトウォーズ!』から)

 

 コンピュータを仮想機械とする考え方は1960年代の初め、バロース(現ユニシス)が商用初の仮想記憶装置を開発した頃から始まっている。だがそれは汎用大型機の世界の話で、パソコンで仮想化という話はこのとき初めて聞いた。パソコン雑誌などで仮想化が特集記事になりだしたのは1990年代以降ではなかったか。

 

 このときの取材ではUNIXも含めたマルチOSや、マルチタスクという話も出た。シングルタスク環境では逐次処理をするため、ディスクやネットワークの処理に時間がかかり、入力待ちや通信待ちが起きる。その間にCPUを動作させて別の計算をして全体の処理時間を短縮する、というのがマルチタスクである。

 

 仮想化やマルチOS、マルチタスクの話を聞いているうちに、それがどういう世界を招来するのかよく解らなくなった。次に何を訊くべきか? すると水野さんが言った。

「じゃあ、この辺で...」。もらっていた1時間にまだ15分ほど残っていた。

 

 水野さんが退室してから広報担当者がぽつりと口にした。「おかしいな。次までにまだ時間があるはずだが...」。私は敗北感を味わった。そして恥ずかしくなった。水野さんに「これ以上、お前に付き合っている暇はない。ちゃんと勉強して出直して来い」と言われたと思ったからである。

 

 評論家・立花 隆氏の『知のソフトウェア』という本に、100の質問を考えるという話が出てくる。氏はこの中で取材者の力量不足を指摘し、「何とかの件ですが...」と投げかけて相手が勝手に話してくれるのを待つだけで、具体的な質問が出来ないのが多いと述べている。私はそこまでひどくはないと思っているが、このときは10項目ほどしか考えてこなかった。あとはそのときの成り行きでなんとでもなると自惚れていた。それをものの見事に水野さんに打ち砕かれたのである。

 

 以来、できるだけ予習し、100項目とは言わないが、なるべく多くの質問項目を考えるようになった。いま、水野さんに取材する機会があれば、持ち時間を超過しても取材できると思うが、確固たる自信はない。「少しはマシになったが、まだまだだな」と言われそうな気もする。水野さんは20031月に亡くなられた。

 

 AIは革新的かつ効果的な問題解決手法」

 

 いま、女性がコンピュータを使うことはごく日常的になった。だがコンピュータがここまでくるには、先人たちのたゆまぬ研究や努力があったことは言うまでもない。その日本人女性代表とも言えるのが山本欣子(やまもと・きんこ)さんだ。

 

 山本さんに初めてお目にかかったのは 1987年(昭和62年)の春先である。じつはその数年前から私はIT専門紙の記者としてAI(人工知能)の連載を始めており、それを一冊の本(『AIビジネスへの布石』)にして出すことになった。その推薦文をお願いするのが目的である。当時、山本さんは財団法人日本情報処理開発協会の常務理事だった。

 

 東京タワーの筋向いの機械振興会館にある同協会の応接室で待っていると、スラックススーツ姿の女性が颯爽と入ってきた。それが山本さんだった。山本さんは19282月生まれなので当時59歳だったわけだが、バリバリのキャリアウーマンといった雰囲気だった。

 

 趣旨を説明すると笑顔で快諾してくれた。その笑顔がまた魅力的だったので、カメラを取り出して写真撮影をお願いすると「写真ならありますから、あとで送ります」とやんわりと拒否された。

 

 それからしばらくして「発刊に寄せて」というタイトルの推薦文とともに写真が送られてきた。〈う、これは少し若すぎるのでは? やはりあのとき撮っておくべきだった〉と思ったが、お気に入りなのであろうと、ありがたく使わせていただいた。

 

KC3P0083.JPG                              ◎山本欣子さん

 

 推薦文の中で山本さんはAIについて次のように述べている。

 

 ――とは言え、現時点でも既にAIの大きな可能性が予見し得る。特にソフトウェア面から、ある種の曲がり角にきている現段階の情報処理技術にとって、AI技術の応用は、革新的かつ効果的な新たな問題解決手法の1つと言えるだろう。

 

 東京女子大数学科を出た山本さんは、逓信省(総務省の前身)電気試験所、日本電信電話公社電気通信研究所などでソフトウェアの研究開発に携わっている。日本独自の論理素子として注目されたパラメトロン計算機の研究開発にも参画するなど、わが国のコンピュータの草創期を担った一人だ。山本さんが推薦文で述べたことは、四半世紀たった現在でも生きている。

 

 山本さんとはその後、日本情報処理開発協会の中にできたICOT-JIPDEC AIセンターの委員会に私がオブザーバーとして参加する羽目になって、何度もお会いした。いつも颯爽として、的確な意見を述べておられた。

 

 あるとき、階段を駆け下りてフロアを曲がったところで、山本さんとぶつかりそうになったことがある。「ああ、びっくりした!」と胸に手を当てた山本さんは、恐縮する当方を気遣うように笑顔を見せた。バリバリのキャリアウーマン的雰囲気とは違った女性らしい一面を垣間見た気がした。コンピュータ一筋の人生で、1997年に亡くなられたが、もっと話を伺っておけばよかったと思う。


「それはいい、と言ってみよう」

 

 コピー機のメーカーにリコーという会社がある。もうかなり前のことだが、そこの会長だった浜田広さんに座右の書について取材したことがある。浜田さんは読書家で、忙しい会長職の合間にも本屋を見つけると立ち寄り、数冊は買う。毎月30冊程度は読むという話だった。

 

 で、浜田さんが座右の書として紹介してくれたのが『人間的魅力の研究』(伊藤肇著)という本である。この本を知らなかった私は、なんと直截的でレポートみたいなタイトルの本か、浜田さんともあろう人がそんな本を読むのかと少々落胆しながら話を訊いた。今から思えば、冷や汗三斗である。

 

 そのとき浜田さんがこの本をどう語ったか忘れてしまったが、気になったので帰りしな、版元の日本経済新聞社に寄り文庫版を買って読んだ。そして納得した。この本は面白い。人間の資質を深沈厚重、磊落豪勇、聡明才弁というように分類し、さまざまな人物を採り上げて、汲めども尽きぬ人間の魅力といったものが書いてある。浜田さんにも著者の伊藤肇氏にも頭の下がる思いだった。

 

 浜田さんに取材したのはこのときが初めてではない。私はOA(オフィスオートメーション)業界紙の記者をしていたことがあるので、販売本部長以降の浜田さんに何度もお目にかかった。社長に就任してからだと思うが、浜田さんはある年の年頭所感で「誰かが何かを提案したら、それはいいとまず言ってみよう」といった趣旨の発言をされた。さすがにいいことを言うなあと思ったものだ。

 

 提案には、ほじくっていけばどこかしら穴や弱点はあるもので、批判的な反応をしておくにしくはない。コケたとき「だから言ったろう」と言うことができる。認めるには、ある種の勇気がいる。この勇気というか、まず相手を容認する前向きの姿勢が、浜田さんのそれこそ人間的魅力なのだろう。

 

 取材が終わって雑談になったとき、浜田さんは島津日新斉の「いろは歌」というのを教えてくれた。日新斉は「島津中興の祖」と言われている人物で、鹿児島出身の浜田さんが当時、鹿児島県人会長をしていたことからそんな話になったと記憶している。

 

 「いろは歌」は、人間として社会に生きる道を説いたものという。面白かったので、コピーをもらった。始まりの「い」と、終わりの「す」の項はこんな歌だ。

 

irohauta.JPG                                        ◎「いろは歌」のコピー


 いにしへの道を聞いても唱えてもわが行いにせずばかひなし

 

 解説の必要はないだろうが、昔からの立派な教えをいくら聞いても、それを口に唱えたところで、自分で実際に実行しなければ何の役にも立たない。

 

 少しきを足れりとも知れ満ちぬれば月もほどなく十六夜の空

 

 物事は充分でなくても満足だと思っているほうがよい。月でも満月になると翌日からは十六夜の月となって欠け始めるものである。

 

 どうです? うーん、なるほどと思うでしょう。ところでこのブログのタイトルだが「生縁(しょうえん)」は、袖振り合うも多生の縁、「察智(ざっち)」は仏教でいう五智の一つ妙観察智から拝借した。これまで取材でお会いした方々や、そこで得たちょっと面白い話をこれからしばらく書いてみたい。

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