飛行機のパイロットが一番緊張するのは離着陸のときだそうである。安定した地面から不安定な空中に飛び出したり、空中から着地するわけだからさもありなんと思うが、取材者の場合は相手に最初の質問を投げかけるときであろうか。
私の場合、飛び込みで取材することは少なく、大抵は事前にアポイントを取るので、相手がどこの誰であるかは予め分かっている。だが初めての相手に対しては大なり小なり緊張する。相手がどんな性格なのか、こちらの質問の意図や意味をきちんと理解してくれるか、どこまで本音を話してくれるか――。
紀井奈栗守(きいな・くりす)さんに初めて会ったときも少なからず緊張した。日本語を話すが、本名はクリストファー・キーナというガイジンさんだから、なおさらだ。だが紀井奈さんには面食らわされた。名刺交換して訪問の意図を改めて説明し、取材を始めようとしたら、紀井奈さんはこう言ったのである。
「近くにいい温泉があるから、行きませんか?」
紀井奈さんは株式会社鴨(かも)というコンサルティング会社の社長で、同社は長野県上山田町にあった。温泉好きの人はご存知と思うが、上山田といえば温泉の町である。訪ねた時間も午後遅かったし、取材が長引いたら最終列車で帰ればいいと思っていたから、ままよと誘いに乗った。
温泉の浴場は徒歩数分のホテルの最上階(五階か六階だったと思う)にあった。風呂に入るには時間が早いせいか、利用客は我々のほかに中年の男性が一人しかいない。窓越しに雪を頂いた山が迫り、いい眺望だった。そこで世間話をしているとくつろいでしまい、仕事のことを忘れそうになって弱った。
このときの取材はデータベースソフトをどう活用しているかを訊くのが目的だったのだが、温泉から戻ってみると紀井奈夫人の明子さんがビールやつまみを用意してくださっていて、またまた弱った。私は下戸の部類に入るが、決してアルコールが嫌いではないのだ。
だがここは心を鬼にしてビールを一口飲んだだけで取材を再開し、短期集中型? でとにかく記事をまとめるのに必要最小限のことは訊いた。だが今から思えば、まんまと紀井奈さんの術中にはまった気がしないでもない(といって、紀井奈さんが何かを隠すために取材者を歓待することによって煙に巻くとか、そういう必要は何もなかったはずだが)。
その後、紀井奈さんには別のテーマでの取材や仕事以外でも何度かお会いした。紀井奈さんは米国コネチカット州の出身で、ブラウン大学でコンピュータ科学を学んだあと、カリフォルニア州立大学バークレー校で文化人類学の理学博士を取得している。博士論文は長野県坂城町を研究した「ある地方都市の奇跡――高度成長期の工業発展」というものだ。
「坂城町は人口1万6000人ほどなのに400社近い中小企業があった。単純計算すると40人に1人は社長なのです。なぜそういうことが可能だったのか、誰にも分からない。行政が計画をしたわけでもなければ、大企業の下請けでもない。そこで調べていくと、旺盛な起業家精神があった。偶然も作用していますが」
坂城町は工業の町というイメージが強いと思うが、産業廃棄物などの汚染の心配がない。それは坂城町の中小企業の環境に対する意識の高さや行政の努力が背景にある――と紀井奈さんは指摘する。
「一方で坂城町は農業も盛んで、住宅地もあり、なんといっても自然が身近でとてもバランスが取れている。私の仕事は創造力を必要とするのでこの環境から力を貰っているが、実はこのことは坂城町に限らない。日本はどこに行っても豊かな自然がある。その中で創造力を働かせながら、競争力のある製品を生み出していくのに、日本の地方ほど恵まれた環境はないのではないかと私は思うのです」
紀井奈さんの会社は日米企業のビジネスの橋渡しを行なっており、日本側の企業の顧客は東京の会社が多い。こうした場合、普通は東京に会社を構えがちだが、紀井奈さんの会社は現在、坂城町にある。それは東京だと経費がかさむこともあるが、主因はバランスの取れた環境にあるという。
「日本の企業は少し大きくなると会社を大都市、とくに東京に移したがるが、いかがなものか。地方にいてこそ発揮できる強みや特徴づくりを、わざわざ経費のかかる大都市に出て、その他大勢になることはないのではないでしょうか」
人の多く集まるところでないと成り立たないサービス業のような業種だと大都市が必要になろうが、ものづくり全般、とくにパソコンソフトやスマホアプリの開発などは、紀井奈さんの指摘するように日本の地方はいい環境にあるといえるかもしれない。
株式会社鴨 :〒389-0601 長野県埴科郡坂城町坂城6362-1 BIプラザさかき内
tel 0268-81-1350 fax 0268-81-1351
http://www.kamoinc.com/