2012年11月アーカイブ

 「自分の頭で考え、自分でモデルを創りだそう」

 

 木枯し紋次郎ふうに言えば(旧いなあ!)、あっしにゃ縁のねえこって、ということが私にはいくつもある。その最たるものの一つが東京大学だ。こっちで縁をもちたくとも、私のおつむでは向こうが相手にしてくれない。

 

 その東大の総長秘書室というところから、ある日一通のメールがきた。小宮山宏総長が本を出すので手伝わないか、というものだ。小宮山さんは「知識の構造化」を提唱していて、それをテーマにした講演は多い。著書もあるのだが、講演をもとにしたよりやさしい解説書を出したいということだった。私ごときがと思ったが、光栄なことでもありお受けした。2006年のことである。

 

 じつはその年の春、日経BP社から『東京大学21世紀COE 未来へ続く「知」がここにある』という本が出ていて、私はそのとき東大の7拠点のCOEを取材し原稿を書いた。それが背景にあったようだ。

 

 ちなみにCOECenter Of Excellence)というのは文部科学省が2002年から取り組んでいる研究拠点形成等補助金事業で「日本の大学に世界最高水準の研究教育拠点を形成し、研究水準の向上と世界をリードする創造的な人材育成を図る」のが目的。スタート当時は「21世紀COEプログラム」という名称だったが、2007年以降は「グローバルCOEプログラム」として継続している。私が取材した頃は全国に約300COE拠点があり、そのうちの28拠点を東大が占めていた。

 

 本郷の総長室でお目にかかった小宮山さんは、学者というより知的でエネルギッシュな企業役員といった雰囲気だった。自己紹介をかねて拙著(『トコトンやさしいパーソナルロボットの本』)を差し出すと、パラパラとめくって「そうそう、こういう簡潔な書き方がいいんだよ」と言われた。ざっくばらんで、どこかべらんめえ調の口調(小宮山さんは1944年、疎開先の栃木・宇都宮で生まれているが、育ちは東京・新宿)に、私の緊張はいっぺんに解けた。夏目漱石の『坊っちゃん』が好きだというのもうなずけた。

 

 その後も、知識の構造化の考え方や講演の不明な点の確認などで何度かお会いしたが、飾らず、率直な物言いは同じで、知らないことは知らないとはっきりと言われる。おかげで余計な気を遣わずに済んだ。本当に賢い人は、やはり賢いのである。

 

 それだけに、5つほどの講演をもとに文章化するにあたっては可能な限りの注意を払った。関連書籍を読み漁り、小宮山さんの新たな講演も聴きに行ったりした。そして己の知識レベルの低さに辟易しながら、〆切を劇的に? 超過してやっと文章化作業を終え、『知識の構造化・講演』として陽の目をみた。小宮山さんにも版元のオープンナレッジ社にも多大の迷惑をかけてしまった。

           

 このお手伝いはとても勉強になった。知識の構造化の必要性を説くにあたって小宮山さんの言及する対象は人口、食糧、資源、エネルギー、環境、地球温暖化、ゴミなどに関する問題から、教育問題や構造主義にいたるまで実に広範で、それに何とかついていかなければならない。ソシュールやストロースといった構造主義者や、ストロースとサルトルの論争(サルトルが負け、実存主義は色あせた? らしい)などはこのとき初めて知った。おぼろげな知識の輪郭が明確になることも数限りなくあった。

 

 「知識の構造化」とは何か。小宮山さんによれば「細分化された分野に分散した膨大な知識を、相互利用可能にすること」である。世の中は複雑化し、学術や研究は細分化され深堀りされていく。IT化が進んで知識はビッグバンを起こしており、インターネットを使えば必要な情報はすぐに得られるが、それは巨大なジグソーパズルのピースを見ているのであって、知識の全体像が俯瞰できていない。そのため、専門家であっても判断ミスを犯すことが出てくる。

 

 その象徴的な例として、『行動と脳科学』というこの分野のトップジャーナルが1982年に行なった論文の再投稿実験がある。それは、12の学会誌から過去3年間に出た論文を選び、再投稿するというものだ。ただし、まったく同じ条件では検索システムに弾かれてしまうので、著者や所属、タイトルなどを変えた。12の論文が再投稿された学会では、編集責任者や査読者合計38人が目を通したが、そのうちの35人は再投稿であることに気づかず、再投稿なので駄目だと指摘したのは3人しかいなかった、という。

 

 ことほどさように、いまや知識は爆発的に増加しているのに、活用できない状況に陥っている。これを解決するには構造化知識(関連づけられた知識群)と人とITが三位一体となって機能する必要があると、小宮山さんは説く。

 

 少子高齢化、環境、エネルギー問題をはじめ、日本はこれから世界が遭遇するであろうさまざまな課題を先取りした「課題先進国」であるとも小宮山さんはいう。知識の構造化は、そうした課題を解決するためにも有効で「課題解決先進国」となることによって、日本は世界のフロントランナーになれる。そしてフロントランナーとしてやっていくためには自分の頭で考え、自分でモデルを創りだす必要がある――。

 

 「自分の頭で考えるっていうけど、大概は誰かが言ったことを繰り返しているだけなんじゃないかと思うんだよ。本当に自分の頭で考えるときに大事なのは、わかった! という実感。体感としてわかるんだな。わたしは40歳の頃、エネルギー保存則について、わかった! と実感した。だから、どんな人にどんな角度から聞かれても答えられる」

 

 体感としてわかると、やさしいそうである。だからやさしく説明できるが、あんまり説明がやさしいと、学者先生の小難しい解説を期待した人からは拍子抜けした反応をされることもあるらしい。いずれにしても、皆さん、誰かの受け売りではなく自分の頭で考えるように致しましょう(と、これも小宮山さんの受け売り?)。

 

 

chishiki.JPG                  ◎小宮山宏著『知識の構造化・講演』

 

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 「過程を重んじることが人生を豊かにする」

 

 このブログのタイトル「生縁察智」(しょうえんざっち)の「生縁」は、「袖振り合うも多生の縁」から採った。なので、一度しか会ったことのない人でもインパクトが強ければ採り上げる。そんな一人が数学者で大道芸人でもあるピーターフランクル(Peter Frankl)さんだ。

 

 フランクルさんには2005年、東京・渋谷にある彼のオフィス「富蘭平太事務所」で会った。グローバリゼーションの名の下、日本人の持つ美しい風習が失われつつある。そのことに対する警鐘を在日外国人に鳴らしてもらう、というのが取材の目的である(20062月、『なぜニッポン人は美しい風習を捨てるのか―親日家8人からの熱きメッセージ』のタイトルで明拓出版から刊行))。

 

 会ってまず驚いたのは、その胸板の厚さである。大柄ではないが、大胸筋の盛り上がった逆三角形の胸は相当に鍛えている感じだった。だがそれは序の口で、日本に対する知識や理解の深さにさらに驚かされることになった。

 

 フランクルさんは19533月生まれ、ハンガリーの出身である。18歳のときに国際数学オリンピックで金メダル、24歳で数学博士号を取得。ユダヤ人のため、両親や家族はアウシュビッツ収容所に送られ、両親は九死に一生を得たが、両親の家族は全員ガス室で殺害された。「もし神がいるのなら、このように罪のない人々を苦しめることはないはずだと両親は無神論者になった」とフランクルさんはいう。ご両親はともに医者である。

 

 自身も差別に遭っている。たとえば7歳のとき、隣家の女の子と遊んでいて言い争いになり、言葉に窮した女の子から「臭いユダヤ人」と罵られた。「ユダヤ人と判らないよう、キリスト教の国ならどこにでもあるような〈ピーター〉という名前をつけてもらったにもかかわらずです。だからハンガリーは祖国というイメージはかなり薄い。ぼくはハンガリーを祖国と思っても、国民の多くは認めてくれない」

 

 それならばと、フランス人になりきるつもりで仏文学を勉強して亡命したフランスでも事情は同じだった。欧州がだめならと亡命したアメリカでは、欧州ほどの差別はなかった、ものの別の壁にぶつかった。そこで研究員交換制度を利用して訪日することにした。

 

 じつはフランクルさんは、1972年に訪日した両親からいい国だと聞かされ、好感を持っていた。また両親の招きでハンガリーを訪れた日本の大学教授に会い、聡明で寡黙で礼儀正しい教授に、日本に対してさらに好印象を抱いていた。

 

 はたして、19829月に訪れた日本は「地球上の天国のように映った」。差別のない公平な社会であり、国民は一億総中流といった感じで仲のよい雰囲気があり、好奇心旺盛で、聞き上手で、礼儀正しく、とても親切だった。

 

 だがそれから四半世紀を経て「日本人はマイナス思考になっている人が多い」とフランクルさんは警鐘を鳴らす。郵政民営化への賛成や、議員年金への反対の背後には「自分よりいい生活をしている人への妬みがある」と見る。タカ派政治家のナショナリズムにも危険を感じる。

 

 「愛国心や愛国主義はいい意味でのナショナリズムという言い方があるが、それは違う。ナショナリズムは国粋主義であり民族主義であって、愛国心や愛国主義を表わす英語はパトリオティズム(Patriotism)です。国粋主義は一つの物差ししか持たず、自国が全ての面で優れていると考える。一方、愛国主義は世の中を客観的に捉え、相手の国を否定することなく自国の文化や人を愛することで、それはとても美しい」

 

 フランクルさんは、大好きな黒澤明や溝口健二、大島渚といった監督の作品が映画館で上映されなくなったこと、商店街の減少による広場文化の衰退から、中選挙区制の必要性、美しい日本語の衰退まで、さまざまな面で警鐘を鳴らす。11カ国語を話せるフランクルさんに「習得するには複雑で難しいけれども、逆にそれゆえに美しい日本語が、カタカナ語にどんどん侵食されていくのはとても寂しい」と指摘されると、こっちまで寂しくなってくる。

 

 「民族としての意識は、使っている言語が母体になる。その言葉が消えたところは、民族も滅びた。その伝でいくと、いまの日本語の乱れや衰退は、民族としての日本人の存亡の危機につながるのではないか」

 

 こうした警鐘の詳細は先に紹介した『なぜニッポン人は美しい風習を捨てるのか』を読んでいただきたいが、最後にもう一つだけ紹介しておきたい。それは、日本人の生き方や国の舵取りに関する話である。アメリカとの比較で、フランクルさんはこう語る。

 

 「アメリカは結果重視の社会で、どんな手段を講じてもいいから、とにかく勝つべきと考える。だから、広島と長崎に原爆を投下したことにアメリカ人は罪の意識を持っていない。それによって戦争が早く終わったのだから、意味のあることをしたと思っている」

 

 「一方、日本は本来、過程を重んじる文化で、それをわかりやすく説明してくれるのが茶の湯だ。結果だけを見ると茶の湯は、わずかな量の抹茶を飲んで、小さな和菓子を食べるだけだが、茶室に入り、正座して瞑想状態になり、空間と一体感を感じながらお茶を一服いただく。ぼくはこうした作法に贅沢を感じるし、時間の流れを感じて、本当に素晴らしいと思う」

 

 「人生を考えれば、結果は皆同じ。皆、死ぬのです。そして火葬場に行く。だからといって、早く火葬場に着いた人が勝ちでもないし、皆死ぬからといって、それで人生に意味がないわけでもない。人生の意味はまさに生きる過程にある。だから、過程を重んじることが人生を豊かにすると思うのです」

 

 日本が大好きなフランクルさんは、これからも日本で暮らしたいと思っている。だが国粋主義がもっと強まって、かつて小泉八雲が大学を追い出されたように外国人排斥運動が起きるような事態にでもなったら、「仕方なく日本を出て世界放浪を再開するかもしれない」という。

 

 経済活動で諸外国とこれだけ絡み合っているいま、そのようなことは起こりようがないと私は思うが、フランクルさんの警鐘には大いに耳を傾けたい。

 

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                              フランクルさんの警鐘を所収した書籍   

 

 明拓出版の連絡先:電話/FAX 0742-48-1898

              メール meitaku@yellow.plala.or.jp                   






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